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歌詞および雑解説です。今回やや時系列に入れ替え等ありますのでご注意ください。足りないもの なーんだ 飛行機・戦車※1 世論は冷たいんだ 乗れないぜ汽車※2鋼がない ボーキも油も 再大戦なら 大敗以外ない 正味クソゲーだ カラ空回れ 大正流行(モード)「苦」だ 制服人生 校内も「独」だ 屈めよ屈め※3早大内 和気あい発会デモ隊 反対 模範にならない※4 軍人もう退くんだ 嗤えよ嗤え師団を減らして 大佐は学校へ子供に媚売って 私服を探す反軍広まって苦しんで泣いて逃げ出したいの デモクラシー さよなラ? ならば 軍制改正粛々図るルル 予算をもっと頂戴な ねえ 近代戦についてけ※5護憲三派縮縮求むルル※6無いの? もっと 解 解 改 改ひれ伏せベノム めっ! 9000万でGoだ 大砲作れ 13年後FINだ コツコツ進め大震災 帝都が回って 政財界脳内LESSもう一回 軍事費も没収だ絞れよ絞れ 小児(ガキ)の玩具と 勲章は 蔑まれ※7ときどき強がって マルクスを読む※8時代に向き合って 筆取って描いて抜け出したいの※9ベノベノムあらま 山東出兵 うか うか進むルル 兵をもっと 頂戴な ねえ 済南城までとんでけ攻城戦 娯楽 楽 広めルル軍に もっと 愛 愛 愛 愛 ※10飛び出せベノムめっ!もう投薬 目指し厄 回るルル ハイでもっと狂乱なねえ 奇っ怪々でSick Heck親軍感情 稚気痴気騒がルル 無いのずっと 解 解 解 解 解 解 解 解 ※11喧伝で 煽る 味 占めるルル 軍にとって良好な ねえ 大衆論を滔滔※12大陸に 血ドクドク 零るルル 無いの?もっと愛 愛 哀 哀 叫べベベノム 叫べベベノム 叫べベベノム ※1:イントロでも映っているが、陸軍による調査にて、高射砲や飛行機・戦車と言った『新兵器』の保有数、また予算が各列強に比べて圧倒的に少ないことが判明していた。※2:大正期において軍人は蔑視の対象となっていた。軍服を着て汽車に乗ることも憚られるほど。軍職は不生産的職業と言われた。人力車への乗車を拒否されたり、当時軍人は映画を半額で見ることができたが、それを指して半人前とされたりと、世間一般的な冷遇があった。※3:軍縮により職を失った将校救済のため、配属将校制度が用いられたが、ここでも軍人は冷遇されることになる。教員からは仲間はずれにされ、学生からは単調な教練に対する猛烈な反抗を受けた。※4:いわゆる早稲田大学軍事研究団事件である。上記のように軍事という領域そのものに対する無理解が広まっていた時流のなか、青柳篤恒教授を団長として軍事研究団が、しかも反軍色の強い早稲田大学で設立された。発会式には当時の陸軍次官白川義則、近衛師団長中島正武、第一師団師団長石光真臣(映像に出ているのはこの人である)と錚々たるメンバーが出席し祝辞を述べた。が聞こえたかどうか。早稲田大学の学生7、800名が講堂に詰めかけ『人殺し等の顔を見せ!(ママ)』『青柳恥を知れ』などとヤジを飛ばしていたのである。博士のひとりが『言論と集会の自由は立憲国民のよく尊重すべきもの』『意見の同じものが静かに研究をするのは自由であって、それをすら妨害するとは言語道断』などと演説をぶったが効果は無かった。※5:世論に押されつつも兵装近代化の必要性を強く認識していた陸軍は、軍縮を実施する。5個師団相当の将兵・軍馬を削減し(将校2168名、准士官以下57296名、馬匹13000頭)、代わりに削減分の予算を近代化予算として転用することを計ったのである。これは山梨軍縮と言われ、上原勇作元帥の強い影響力のもと実施されたが、宇垣一成によれば言語道断というものだったらしい。というのも、3億5583万円/10年の削減を行った見返りが、たったの9000万円/13年という規模にとどまり十三年後に軽機関銃中隊6個整備、といった程度になってしまったことが原因である。※6:山梨軍縮では改革に不足であるとする護憲三派はさらなる軍縮を要求し、これに応える形で実施されたのが宇垣軍縮である。こちらは四個師団そのものの削減に踏み切った。対して国会では憲政会の七個師団削減要求、政友会の六個師団削減要求、革新俱楽部の師団数半減要求をそれぞれかわしきり、さらに削減分の予算を国庫に返納せずにすべて近代化予算に転換することに成功した。もっともこの宇垣軍縮も、山梨軍縮同様の問題を追及されることになる。※7:『わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?』芥川龍之介『侏儒の言葉』より※8:こうした風潮に対して、軍人は自信喪失に陥ったり、怒りを燃やしたりと様々な反応を見せた。なかには過度に迎合しようとしてマルクスやレーニンを読むものも居たという。五・一五事件後に西園寺公望は『軍人を抑圧し過ぎたるきらい無きにあらず』と語った。※9:軍事への無理解に対して新聞操縦を考えたのが田中義一であり、その考案時期はシベリア出兵直前にまでさかのぼる。大正期では『肉弾』で著名となり、そのために冷遇されていた桜井忠温の後ろ盾となり、『筆で陸軍を活かしていきたい』と語った。このメディアを重視する姿勢は宇垣一成も持ち合わせていた。宇垣軍政下において新聞班長となった桜井は、以後陸軍のメディア戦略を本格的に牽引し、映画『軍神橘中佐』の執筆などに励むことになる。日露戦争は受けの良いネタとして用いられ、満蒙権益の神聖化もこの時期に進んだと言われる。※10:山東出兵の詳細は割愛する。本動画における主眼は、山東出兵はシベリア出兵同様に国家の存亡を賭けた戦いでは無かったという点である。兵士は政友会の政策上の犠牲になった、というような風潮が広まるのを陸軍は恐れ、積極的な世論形勢に取り組むことになる。この過程で済南城攻略戦を映した『戦禍の済南』などの記録映画が上映され、二万人の群衆が万歳を絶叫したという。※11:昭和六年、朝日新聞主宰にて行財政整理座談会が開催された。ここでは軍政改正についても討論され、陸軍に対しても多くの改革意見が出された。この座談会に陸軍軍人が居なかったということに樋口季一郎は腹を立て、編集局長の緒方竹虎へ強烈な抗議を行った。これに腹を立てたのが緒方で、官邸に出向いて大臣を出せと騒ぎ、杉山次官がなだめる羽目になった。その二か月後には南陸相訓示問題というものが起きる。訓示のなかで政治への介入が見られるということで各新聞からこれまた猛烈な反発を受けた。しかし満州事変が起きると新聞の論調は一変し、強硬論を賞賛するばかりのメディアと化す。結局陸軍の求めた軍事への理解というものは浸透しなかったと言える。事変が拡大するにつれ、軍人の立場は強くなっていくが、それも軽薄な世論によるものと軍人側も理解していたと言われ、軍民間の溝が埋まることは無かった。※12:満州事変を機に旧来の将官は一掃され、いわゆる一夕会の台頭が始まる。事変後新聞班長に就任したのが鈴木貞一であるが、鈴木は軍人勅諭にある「軍人は政治に拘わらず」という文言の解釈の変更に躍起となり、またより強固な軍民関係の構築に努めた。
タユウさんの替え歌一通り見たのですが、どれも切り口が独特で歌詞の嵌め方も上手くて好きです!近代日本史の替え歌作ってる方少ないので頑張って頂きたいです、応援しています…!
ご覧いただきありがとうございます!頑張ります!
こんにちは。私は韓国人です。 チャンネルの映像を翻訳したいのですが、可能でしょうか? 出所は残します。
こんにちは。問題ありませんが、原曲とUST,vocalのクレジットを行なってください。概要欄を転記していただければと思います。よろしくお願いします。
分かりました。ありがとうございます。
クオリティが高い!羨ましいね
ありがとうございます(o^-')b !
神動画来た!!!公開がたのしみすぎる!!!
歌詞および雑解説です。
今回やや時系列に入れ替え等ありますのでご注意ください。
足りないもの なーんだ 飛行機・戦車※1
世論は冷たいんだ 乗れないぜ汽車※2
鋼がない ボーキも油も
再大戦なら 大敗以外ない
正味クソゲーだ カラ空回れ
大正流行(モード)「苦」だ 制服人生
校内も「独」だ 屈めよ屈め※3
早大内 和気あい発会
デモ隊 反対 模範にならない※4
軍人もう退くんだ 嗤えよ嗤え
師団を減らして 大佐は学校へ
子供に媚売って 私服を探す
反軍広まって
苦しんで泣いて逃げ出したいの
デモクラシー さよなラ?
ならば
軍制改正粛々図るルル
予算をもっと頂戴な
ねえ 近代戦についてけ※5
護憲三派縮縮求むルル※6
無いの? もっと
解 解 改 改
ひれ伏せベノム
めっ!
9000万でGoだ 大砲作れ
13年後FINだ コツコツ進め
大震災 帝都が回って
政財界脳内LESSもう一回
軍事費も没収だ
絞れよ絞れ
小児(ガキ)の玩具と 勲章は 蔑まれ※7
ときどき強がって マルクスを読む※8
時代に向き合って
筆取って描いて抜け出したいの※9
ベノベノム
あらま
山東出兵 うか うか
進むルル
兵をもっと 頂戴な ねえ
済南城までとんでけ
攻城戦 娯楽 楽
広めルル
軍に もっと
愛 愛 愛 愛 ※10
飛び出せベノム
めっ!
もう投薬 目指し厄 回るルル
ハイでもっと狂乱な
ねえ 奇っ怪々でSick Heck
親軍感情 稚気痴気
騒がルル
無いのずっと
解 解 解 解 解 解 解 解 ※11
喧伝で 煽る 味 占めるルル
軍にとって良好な ねえ 大衆論を滔滔※12
大陸に 血ドクドク 零るルル
無いの?もっと
愛 愛 哀 哀
叫べベベノム
叫べベベノム
叫べベベノム
※1:イントロでも映っているが、陸軍による調査にて、高射砲や飛行機・戦車と言った『新兵器』の保有数、また予算が各列強に比べて圧倒的に少ないことが判明していた。
※2:大正期において軍人は蔑視の対象となっていた。軍服を着て汽車に乗ることも憚られるほど。軍職は不生産的職業と言われた。人力車への乗車を拒否されたり、当時軍人は映画を半額で見ることができたが、それを指して半人前とされたりと、世間一般的な冷遇があった。
※3:軍縮により職を失った将校救済のため、配属将校制度が用いられたが、ここでも軍人は冷遇されることになる。教員からは仲間はずれにされ、学生からは単調な教練に対する猛烈な反抗を受けた。
※4:いわゆる早稲田大学軍事研究団事件である。上記のように軍事という領域そのものに対する無理解が広まっていた時流のなか、青柳篤恒教授を団長として軍事研究団が、しかも反軍色の強い早稲田大学で設立された。発会式には当時の陸軍次官白川義則、近衛師団長中島正武、第一師団師団長石光真臣(映像に出ているのはこの人である)と錚々たるメンバーが出席し祝辞を述べた。が聞こえたかどうか。早稲田大学の学生7、800名が講堂に詰めかけ『人殺し等の顔を見せ!(ママ)』『青柳恥を知れ』などとヤジを飛ばしていたのである。博士のひとりが『言論と集会の自由は立憲国民のよく尊重すべきもの』『意見の同じものが静かに研究をするのは自由であって、それをすら妨害するとは言語道断』などと演説をぶったが効果は無かった。
※5:世論に押されつつも兵装近代化の必要性を強く認識していた陸軍は、軍縮を実施する。5個師団相当の将兵・軍馬を削減し(将校2168名、准士官以下57296名、馬匹13000頭)、代わりに削減分の予算を近代化予算として転用することを計ったのである。これは山梨軍縮と言われ、上原勇作元帥の強い影響力のもと実施されたが、宇垣一成によれば言語道断というものだったらしい。というのも、3億5583万円/10年の削減を行った見返りが、たったの9000万円/13年という規模にとどまり十三年後に軽機関銃中隊6個整備、といった程度になってしまったことが原因である。
※6:山梨軍縮では改革に不足であるとする護憲三派はさらなる軍縮を要求し、これに応える形で実施されたのが宇垣軍縮である。こちらは四個師団そのものの削減に踏み切った。対して国会では憲政会の七個師団削減要求、政友会の六個師団削減要求、革新俱楽部の師団数半減要求をそれぞれかわしきり、さらに削減分の予算を国庫に返納せずにすべて近代化予算に転換することに成功した。もっともこの宇垣軍縮も、山梨軍縮同様の問題を追及されることになる。
※7:『わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?』芥川龍之介『侏儒の言葉』より
※8:こうした風潮に対して、軍人は自信喪失に陥ったり、怒りを燃やしたりと様々な反応を見せた。なかには過度に迎合しようとしてマルクスやレーニンを読むものも居たという。五・一五事件後に西園寺公望は『軍人を抑圧し過ぎたるきらい無きにあらず』と語った。
※9:軍事への無理解に対して新聞操縦を考えたのが田中義一であり、その考案時期はシベリア出兵直前にまでさかのぼる。大正期では『肉弾』で著名となり、そのために冷遇されていた桜井忠温の後ろ盾となり、『筆で陸軍を活かしていきたい』と語った。このメディアを重視する姿勢は宇垣一成も持ち合わせていた。宇垣軍政下において新聞班長となった桜井は、以後陸軍のメディア戦略を本格的に牽引し、映画『軍神橘中佐』の執筆などに励むことになる。日露戦争は受けの良いネタとして用いられ、満蒙権益の神聖化もこの時期に進んだと言われる。
※10:山東出兵の詳細は割愛する。本動画における主眼は、山東出兵はシベリア出兵同様に国家の存亡を賭けた戦いでは無かったという点である。兵士は政友会の政策上の犠牲になった、というような風潮が広まるのを陸軍は恐れ、積極的な世論形勢に取り組むことになる。この過程で済南城攻略戦を映した『戦禍の済南』などの記録映画が上映され、二万人の群衆が万歳を絶叫したという。
※11:昭和六年、朝日新聞主宰にて行財政整理座談会が開催された。ここでは軍政改正についても討論され、陸軍に対しても多くの改革意見が出された。この座談会に陸軍軍人が居なかったということに樋口季一郎は腹を立て、編集局長の緒方竹虎へ強烈な抗議を行った。これに腹を立てたのが緒方で、官邸に出向いて大臣を出せと騒ぎ、杉山次官がなだめる羽目になった。その二か月後には南陸相訓示問題というものが起きる。訓示のなかで政治への介入が見られるということで各新聞からこれまた猛烈な反発を受けた。
しかし満州事変が起きると新聞の論調は一変し、強硬論を賞賛するばかりのメディアと化す。結局陸軍の求めた軍事への理解というものは浸透しなかったと言える。
事変が拡大するにつれ、軍人の立場は強くなっていくが、それも軽薄な世論によるものと軍人側も理解していたと言われ、軍民間の溝が埋まることは無かった。
※12:満州事変を機に旧来の将官は一掃され、いわゆる一夕会の台頭が始まる。事変後新聞班長に就任したのが鈴木貞一であるが、鈴木は軍人勅諭にある「軍人は政治に拘わらず」という文言の解釈の変更に躍起となり、またより強固な軍民関係の構築に努めた。
タユウさんの替え歌一通り見たのですが、どれも切り口が独特で歌詞の嵌め方も上手くて好きです!
近代日本史の替え歌作ってる方少ないので頑張って頂きたいです、応援しています…!
ご覧いただきありがとうございます!
頑張ります!
こんにちは。私は韓国人です。 チャンネルの映像を翻訳したいのですが、可能でしょうか? 出所は残します。
こんにちは。
問題ありませんが、原曲とUST,vocalのクレジットを行なってください。
概要欄を転記していただければと思います。
よろしくお願いします。
分かりました。ありがとうございます。
クオリティが高い!羨ましいね
ありがとうございます(o^-')b !
神動画来た!!!公開がたのしみすぎる!!!